想ったことを綴るだけ

思いのままにたいぷ

乗り越えられない死を想って

 僕は高校3年生の時、同じクラスの友達をひとり亡くした。

 正直、他の同級生に比べて僕は彼と特別親しいわけでもなかったし、彼が僕のことを気に入ってくれていたのかはわからない。ほんとうにわからない。いまでも、彼にとっての僕はたいした存在ではなかったんだよ、と自分に言い聞かせることがある。でも、ある日、サッカー部だった彼と、吹奏楽部だった僕の部活が始まるまでの少しの時間に、教室の窓のしたによりかかり、一緒にSFC受験しよう、という話をした。彼はそこでジャーナリズムに興味があることを教えてくれた。海外に行っていろんな人と会って、いろんな問題に向き合いたいと教えてくれた。僕も同じだ、といった。2年後、僕は彼を残してSFCに入学して、今、ジャーナリズム的な進路に進もうとしている(ちょっとほんとうにどうなるかわからないんですが)。

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 SFCに入学してすぐの春、か、もしくは合格が決まってすぐだったかもしれないが、彼の実家とお墓がある宇都宮に、ごあいさつに行った。彼にも、彼のお母さんにも。お墓には、彼が亡くなるほんの少し前まで健気に追いかけていた、無垢で無邪気なまあるいサッカーボールと大きな「ありがとう」の文字が彫り込まれていた。実家から離れたところに住み高校に通っていた彼は、ご両親の中ではまだ、こどものままだったのかもしれない。そのいまだ真新しい墓石に、ご両親の、溢れるあたたかな愛を感じて、しばらく言葉を失ってしまったのを覚えている。そのあと、僕はかろうじて彼の名前をつぶやいた。

 

 

 彼が亡くなる直前も、僕は言葉を失っていた。僕の家から30分とかからない大きな病院に入院していた彼にあいさつに行った時だった。僕は交換留学でアメリカに飛び立つ直前で、留学に行く前に彼に会っておきたい、くらいの軽い気持ちで病院に行った。担任の先生と、数人のクラスメイトと一緒だった。僕ら、もしくは僕だけだったかもしれないが、病院についてから、彼が意識不明の状態で集中治療室にいることを知った。抗がん剤以外打つ手がなくなってしまった彼の難病は、山場を迎えていた。今思い返せば、自分自身を平手打ちしたいほど、あまりに気軽に行ってしまったような気がする。病院に着くまで、彼になんて声をかけようか、どんな励ましの声をかけようか、具体的に、あまりにものんきに考えていた。

 

 

 集中治療室に入った僕は、彼のすっかり変わってしまった姿に、一語どころか、一音も発せずに部屋を出てしまった。意識はないけれど聞こえているんだ、がんばってよくなれよ、また秋からみんなで勉強しよう、とか先生は言っていたと思う。かける言葉を頭の中にかかえるだけかかえた僕は、果たして、ぎこちない笑顔を携え、ただただ佇んでいるだけだった。たった数分の間に、彼のむくんだ手を握ろう、と何度考えたことか。もちろん握れやしなかった。

 その時僕は、もうこれは無理かもしれない、と思っていた。あるいは、大丈夫、絶対によくなる、と思っていた。どちらにせよ無責任だった。でも、病院に行った後の記憶が全く残っていないので、答えのでないなにか無責任な思考で一杯いっぱいだったに違いない。結局、彼は、僕が留学中に、息を引き取った。病院に入院してから1か月やそこらだったと思う。早すぎた。

 

 

 アメリカ、イリノイ州のホームステイ先で、同級生の一人から、彼が亡くなったとの連絡をもらった。たしか夜だったと思う。他の友人からは何も連絡はなかった。たぶん、連絡をくれたやつが、代表して僕に伝えるという任務を引き受けたのだろう。そのとき彼の訃報は、あんがいすっと身体のなかに入ってきた。でも、その後一か月くらい、まだ火のついた琥珀色のチャコールのように、くすぶった。18歳で幕を閉じた彼の人生を前に、のんきに海外で遊んでいるような僕がひどく醜く思えた。日本に帰ろうか、とも思った。生の浪費へのうしろめたさを抱えていることで、彼からの、生きることに対する存在もしない追及を逃れようとした。病院のあの部屋で、僕もなにか一言でも発していたら、彼は死を免れたかもしれない、なんてほんとうに馬鹿らしいことを、本気で考えていた。

 

 

 でも、あるときから少しずつ、そのすべてが馬鹿らしく思えてくるようになった。ありやしない重圧に滅入っていた一か月の記憶は、またもや残っていないため、どんな風に考えを変えたかは覚えていない。が、端的に言えば、こんなどうしようもない状態の僕をみて、彼がうれしいはずがない、と思った。彼の分まで生きてやる、なんて身勝手なことは言えないまでも、彼が見たかった世界を見て、会いたかった人々と会い、送りたかったであろう人生を胸張って送ることが、彼にとっても誇らしい友人の姿なんじゃないだろうか、なんて思った。そうやって、くだらない僕の後悔と共に、どこか見えない世界へ行ってしまった彼を、僕の中に内在化させることで、改めて、僕は「生きよう」と思った。

 

 

 今年の8月で、彼が亡くなって6年が経つ。彼が内在化した僕は、とにかく彼の話をしたかった。命日がいつか、正直覚えていないけれど、命日にだけ思いだすんじゃあなくって、いつでもどこでも彼を想い起し、あったのかなかったのかもわからない彼との思い出を話すことが、彼をいつまでも生きさせると思う。今でも、彼の死は乗り越えられていないと思っている。はっきりと想起できる彼の笑顔は、すこしだけ僕の心を傷つける。泣いちゃだめだなあ、と思って涙を我慢する。たぶん彼にとって、僕は大した存在じゃなかったのに。彼の死は、共に生きていくものなんだと思う。だから話したい。だから思い出したい。こうして書くことで彼が生き続けると信じて。

 

 

 昨日まで、カリフォルニアで映画を学んでいる友人がフェアバンクスに遊びに来てくれていた。亡くなった彼の話を、くるまの中で少しだけした。昼間には曇りだった空は、夜になると晴れ渡り、滲んだ弱いオーロラが、山の向こうから顔をのぞかせていた。

  激落ちくん (詩)

 

 

激落ちくん  とても好きな激落ちくん

激落ちくん  とても気持ちよくなる

激落ちくん  キメが細かい

 

ひとり暮らしをするのに  なにが必要か考えたときには

必ずひとつ目にでてくる  

 

ちょっと無理な頼みでも どんなに難しい局面でも

絶対に結果で示してくれる

 

でもね 君はどこに行ってしまうの

アルバイト先で磨いたあの床でも

寒い冬の洗面台でも

今朝のキッチンのシンクでも

君はどんどん小さくなって

最後はさみしがりなしらすいっぴきになってしまう

 

でもね 僕はさみしくなんかない

だってだって きれいになった 君がいた証

 

 

覚書 水俣

 

 

こんなことは書くべきではないだろうかどうだろうかと思いながら、それでもやはり書かなければいけないような気がして、気持ちのままにワードを開いた。

 

 

今日、石牟礼道子が亡くなった。

私は彼女の著作をそれほどたくさん読んだわけではないが、私にとってはとても大きな人であった。

 

2016年の2月に石牟礼道子の「苦海浄土」を手に取って、大げさに言うとそこから私の人生が変わった。

 

苦海浄土」は、石牟礼道子水俣病患者に聞き取りを行い、実際の人物と彼らの経験を元に編まれた小説だ。

 

彼女の書く文はとても美しかった。

私は彼女の書く文をひたすら追う中で、これは書かされた文なのではないか、と何度も思った。

聞き取りを行っていくうちに、書かねば、と思わされたのではないか、と何度も思った。

 

 

その時、私は大学一年生で、とても空っぽな人間だった。

それまで、私の中から湧き上がる力で何かを書いたことがなかった。

そんな私は、片手に収まる「苦海浄土」に、すくってもすくっても底の見えない深さを感じた。

石牟礼道子に文を書かせた水俣病事件は、なにものよりも濃く、それでいて、しかし、吹けば消えてしまうほど淡かった。

 

水俣病は消え始めていた。

 

そして、今日、またひとつの灯が優しく消えてしまった。

 

苦海浄土」をぱたりと閉じて、水俣に関わろうと決断をして、二年。

これからも私は水俣に行きたい。

私に何が灯せるかわからずとも、水俣に行き続けたい。

ニューヨークに単身赴任している母親の家に、年末年始だけ遊びに来た。

家に行って一番驚いたのは、部屋から臨む「ニューヨークっぽさ」もさながら、トイレットペーパーがキッチンペーパーのように分厚いことだった。

時差ボケで早朝4時に覚醒してしまい、便器に座り買ったばかりのiPhone8をいじるしかないぼくの肛門が、その分厚さにどこか安心感を覚えた。と同時に、母が自分のあまり知らない環境で生活していることを知った。

このキッチンペーパーのように分厚いトイレットペーパーの「呼び名」を、キッチントイレットペーパーにするか、トイレットキッチンペーパーにするか迷いながら、真っ暗な部屋でiPhoneをいじり続けた。

そうして、ニューヨークに着いてからのことをぼんやりと思い出していた。

 

着いた晩、久々に会う母と、母の友人夫妻と有名なレストランに行き、ぼくの将来について熱く議論していただいた。

予想以上にドキュメンタリーについて熱く語る友人夫妻と、彼らに負けじとドキュメンタリー論を披露するぼくを横目に、母は何も言えずに細かく頷くしかないように見えた。

ぼくは家族に自分のやりたいことなんかを相談することがなかった。相談する必要性を感じなかったし、ぼくの興味関心に助言できそうにないと、高を括っていたのかもしれない。

子にとって親とは、すごくてすごくない存在なのだ。尊敬すべき対象だと、思っていても、それを態度ではなかなか示せない。

ふと、母を見ると、目にうっすらと涙を溜めていた。よく泣く母の涙には、もう驚くことはないが、早朝4時の脳裏には、涙を溜めて寂しそうにする母が、ニューヨークの寒さとどこかリンクして思い出された。

季節について

8月の18日から3週間ほどインドネシアに行った。インドネシアへの渡航は今年で二回目。前回はおよそ半年前の3月初め。日本では、少しずつ暖かくなってきた時期で、シャツ二枚に薄いウインドブレーカーで成田空港に向かったことを覚えている。飛行機内や空港内がえらく寒いため、今回も同じウインドブレーカーをバックに入れてきた。この半年一度も洗っていない。

 

一年のうちで同じ国に二回も行くことは今までなかったし、インドネシアは一年中あまり温度差がなく、年間の変化は降水量と湿度くらいだったので、入国するときには少し不思議な気分になった。何も真新しい感覚などなく、この半年間ずっとこの島国にいたような気分だった。

 

前回の渡航で初めて会った、ジャカルタに住むインドネシア人の友人に再び会った。彼らと再会して間もなく、半年会ってないことが嘘のように、くだらない冗談を言い合い、他の誰にも理解できないインサイドジョークを繰り広げた。

 

滞在した3週間のうち、はじめ5日とあと5日はジャカルタに泊まり、彼らと繁々会っていた。その度に彼らは、前回に会った時期を全く覚えていない、というような返答をしていた。私が前回何月に来たか、何カ月前に来たかなども、覚えていない。私が3月頃だと言っても首をかしげる始末。なんだ、インドネシア人はずぼらで時間の感覚もないのか、などと一度は失礼な推測をしたものの、その後もシャワーを浴びている時に思いだす残るくらいには気になっていた。

 

今回の渡航最後に彼らに会ったレストランで、来年か再来年に日本で再会しようという会話になった。彼らのうち一人はよく日本に来るのだが、もう一人は一度も海外に行ったことがなければ、雪などは見たこともない。雪は見てみたいが寒いのが大の苦手ということで、夏の日本に来ること、そして山登り、川下りを勧めた。その時に私ははっとした。

 

当たり前のことなのだが、彼らの国には四季がないのだ。彼らは一年の出来事を季節の変化で結びつけることはしない。四季を楽しむ我々は、無意識に、ある出来事が起こった時の気温や湿度、草花の色彩やその芳香、さらには雲の高さや風の質感など、あらゆる季節の顔色を覚えている。そしてそれらをその出来事と結び合わせている。

 

これは、インドネシア人と日本人の記憶力の差ではない。我々日本人の生活、命が季節の顔色と共に成立していることの証明である。そう思うと同時に、この夏の涼しさの香りを全身いっぱいでかぐことに、今の自分を感じる。

人生の本質

5月くらいから法学部のイケメン後輩におすすめされていた映画を見た。

2007年公開の「Into the wild」という映画。

 

映像はとてもきれいで、見た人が非日常を体で味わいたくなるような情景描写も多々あった。

アメリカの壮大さに思いを馳せながら、主人公の葛藤に共感もする。

1秒もよそ見せず見たけれども、見た後には、そこまで良いといわれるほどの映画ではないなという印象だった。

 

映画を見てから5日ほど経っても、なんだかもやもやした。

そういう映画はいくらでもあると思うが、これは少し違った。

昨日バイトで10㎏分の鶏肉を、週末のために仕込んだ1時間半。

その間にこの映画を思い出して考えた。

 

そこから、この映画は人生の本質を伝えたかったのではないか、と思った。

 

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考えることが、好きな理由。

なぜ考えることが好きか考えていた。

友人が、履修課題のお題として出された、といって私に尋ねてきた「なぜ考えることが好きか」という質問。

考えることが好きか嫌いか、など全く言っていないのに投げかけられた、この質問。

 

この質問に応える答えの前に、考えるという行為、とはなにかを考えた。

考える、とは、二次的な行為だ、と思う

 

友人に「なぜ考えることが好きか」と聞かれて、考える。

今日は天気予報で雨が降ると言っていたから、傘を持って家を出るか、考える。

友人との待ち合わせまでに時間があるから、どこで時間をつぶすか、考える。

 

考える、を考えた時、考える前に何かがある。

その何か、が考えることが好きな理由に関係しているのではないか。

 

私は、その何かに対して、“正しい”判断をしたい、と思う。

私の中の“正しい”基準に、照らし合せて、“正しい”判断をしたいのではないかと思う。

私はモノゴトに対して“正しい”判断をしたいから、考えるのが好きなのだ。