母
ニューヨークに単身赴任している母親の家に、年末年始だけ遊びに来た。
家に行って一番驚いたのは、部屋から臨む「ニューヨークっぽさ」もさながら、トイレットペーパーがキッチンペーパーのように分厚いことだった。
時差ボケで早朝4時に覚醒してしまい、便器に座り買ったばかりのiPhone8をいじるしかないぼくの肛門が、その分厚さにどこか安心感を覚えた。と同時に、母が自分のあまり知らない環境で生活していることを知った。
このキッチンペーパーのように分厚いトイレットペーパーの「呼び名」を、キッチントイレットペーパーにするか、トイレットキッチンペーパーにするか迷いながら、真っ暗な部屋でiPhoneをいじり続けた。
そうして、ニューヨークに着いてからのことをぼんやりと思い出していた。
着いた晩、久々に会う母と、母の友人夫妻と有名なレストランに行き、ぼくの将来について熱く議論していただいた。
予想以上にドキュメンタリーについて熱く語る友人夫妻と、彼らに負けじとドキュメンタリー論を披露するぼくを横目に、母は何も言えずに細かく頷くしかないように見えた。
ぼくは家族に自分のやりたいことなんかを相談することがなかった。相談する必要性を感じなかったし、ぼくの興味関心に助言できそうにないと、高を括っていたのかもしれない。
子にとって親とは、すごくてすごくない存在なのだ。尊敬すべき対象だと、思っていても、それを態度ではなかなか示せない。
ふと、母を見ると、目にうっすらと涙を溜めていた。よく泣く母の涙には、もう驚くことはないが、早朝4時の脳裏には、涙を溜めて寂しそうにする母が、ニューヨークの寒さとどこかリンクして思い出された。