想ったことを綴るだけ

思いのままにたいぷ

乗り越えられない死を想って

 僕は高校3年生の時、同じクラスの友達をひとり亡くした。

 正直、他の同級生に比べて僕は彼と特別親しいわけでもなかったし、彼が僕のことを気に入ってくれていたのかはわからない。ほんとうにわからない。いまでも、彼にとっての僕はたいした存在ではなかったんだよ、と自分に言い聞かせることがある。でも、ある日、サッカー部だった彼と、吹奏楽部だった僕の部活が始まるまでの少しの時間に、教室の窓のしたによりかかり、一緒にSFC受験しよう、という話をした。彼はそこでジャーナリズムに興味があることを教えてくれた。海外に行っていろんな人と会って、いろんな問題に向き合いたいと教えてくれた。僕も同じだ、といった。2年後、僕は彼を残してSFCに入学して、今、ジャーナリズム的な進路に進もうとしている(ちょっとほんとうにどうなるかわからないんですが)。

f:id:watarutak:20190409123356j:plain

 

 SFCに入学してすぐの春、か、もしくは合格が決まってすぐだったかもしれないが、彼の実家とお墓がある宇都宮に、ごあいさつに行った。彼にも、彼のお母さんにも。お墓には、彼が亡くなるほんの少し前まで健気に追いかけていた、無垢で無邪気なまあるいサッカーボールと大きな「ありがとう」の文字が彫り込まれていた。実家から離れたところに住み高校に通っていた彼は、ご両親の中ではまだ、こどものままだったのかもしれない。そのいまだ真新しい墓石に、ご両親の、溢れるあたたかな愛を感じて、しばらく言葉を失ってしまったのを覚えている。そのあと、僕はかろうじて彼の名前をつぶやいた。

 

 

 彼が亡くなる直前も、僕は言葉を失っていた。僕の家から30分とかからない大きな病院に入院していた彼にあいさつに行った時だった。僕は交換留学でアメリカに飛び立つ直前で、留学に行く前に彼に会っておきたい、くらいの軽い気持ちで病院に行った。担任の先生と、数人のクラスメイトと一緒だった。僕ら、もしくは僕だけだったかもしれないが、病院についてから、彼が意識不明の状態で集中治療室にいることを知った。抗がん剤以外打つ手がなくなってしまった彼の難病は、山場を迎えていた。今思い返せば、自分自身を平手打ちしたいほど、あまりに気軽に行ってしまったような気がする。病院に着くまで、彼になんて声をかけようか、どんな励ましの声をかけようか、具体的に、あまりにものんきに考えていた。

 

 

 集中治療室に入った僕は、彼のすっかり変わってしまった姿に、一語どころか、一音も発せずに部屋を出てしまった。意識はないけれど聞こえているんだ、がんばってよくなれよ、また秋からみんなで勉強しよう、とか先生は言っていたと思う。かける言葉を頭の中にかかえるだけかかえた僕は、果たして、ぎこちない笑顔を携え、ただただ佇んでいるだけだった。たった数分の間に、彼のむくんだ手を握ろう、と何度考えたことか。もちろん握れやしなかった。

 その時僕は、もうこれは無理かもしれない、と思っていた。あるいは、大丈夫、絶対によくなる、と思っていた。どちらにせよ無責任だった。でも、病院に行った後の記憶が全く残っていないので、答えのでないなにか無責任な思考で一杯いっぱいだったに違いない。結局、彼は、僕が留学中に、息を引き取った。病院に入院してから1か月やそこらだったと思う。早すぎた。

 

 

 アメリカ、イリノイ州のホームステイ先で、同級生の一人から、彼が亡くなったとの連絡をもらった。たしか夜だったと思う。他の友人からは何も連絡はなかった。たぶん、連絡をくれたやつが、代表して僕に伝えるという任務を引き受けたのだろう。そのとき彼の訃報は、あんがいすっと身体のなかに入ってきた。でも、その後一か月くらい、まだ火のついた琥珀色のチャコールのように、くすぶった。18歳で幕を閉じた彼の人生を前に、のんきに海外で遊んでいるような僕がひどく醜く思えた。日本に帰ろうか、とも思った。生の浪費へのうしろめたさを抱えていることで、彼からの、生きることに対する存在もしない追及を逃れようとした。病院のあの部屋で、僕もなにか一言でも発していたら、彼は死を免れたかもしれない、なんてほんとうに馬鹿らしいことを、本気で考えていた。

 

 

 でも、あるときから少しずつ、そのすべてが馬鹿らしく思えてくるようになった。ありやしない重圧に滅入っていた一か月の記憶は、またもや残っていないため、どんな風に考えを変えたかは覚えていない。が、端的に言えば、こんなどうしようもない状態の僕をみて、彼がうれしいはずがない、と思った。彼の分まで生きてやる、なんて身勝手なことは言えないまでも、彼が見たかった世界を見て、会いたかった人々と会い、送りたかったであろう人生を胸張って送ることが、彼にとっても誇らしい友人の姿なんじゃないだろうか、なんて思った。そうやって、くだらない僕の後悔と共に、どこか見えない世界へ行ってしまった彼を、僕の中に内在化させることで、改めて、僕は「生きよう」と思った。

 

 

 今年の8月で、彼が亡くなって6年が経つ。彼が内在化した僕は、とにかく彼の話をしたかった。命日がいつか、正直覚えていないけれど、命日にだけ思いだすんじゃあなくって、いつでもどこでも彼を想い起し、あったのかなかったのかもわからない彼との思い出を話すことが、彼をいつまでも生きさせると思う。今でも、彼の死は乗り越えられていないと思っている。はっきりと想起できる彼の笑顔は、すこしだけ僕の心を傷つける。泣いちゃだめだなあ、と思って涙を我慢する。たぶん彼にとって、僕は大した存在じゃなかったのに。彼の死は、共に生きていくものなんだと思う。だから話したい。だから思い出したい。こうして書くことで彼が生き続けると信じて。

 

 

 昨日まで、カリフォルニアで映画を学んでいる友人がフェアバンクスに遊びに来てくれていた。亡くなった彼の話を、くるまの中で少しだけした。昼間には曇りだった空は、夜になると晴れ渡り、滲んだ弱いオーロラが、山の向こうから顔をのぞかせていた。